例えばストーリーの長さ、プレイヤーキャラクターの人数、
習得可能な技の数、ダンジョンや街の数などなど。

少なければ物足りない、と言われるし
多くすれば量だけ多ければいいというものではない、と言われる。

だけど、どれだけボリュームを多くしても本質的な不足感は
拭いきれないものであるような気がする。
今までに消化した部分が質的に満足のいくモノであった場合は
どうしても今を基準に考えて際限なくもっと上を要求してしまうものだし。

もし飽和感と不足感が両立可能なら双方が同居している状態より
不足感だけの方がまだマシだ。

序盤の難所

2006年1月16日 コラム
作者の考える難易度曲線とプレイヤーの感じる難易度曲線において
もっとも差異が出やすいのはおそらく序盤だろう。

作者は最初からそのゲームに対する情報を全て持っている。
プレイヤーはゲーム終盤になって、やっと作者に情報量が追いつく。
だから、序盤は作者の意図しない難所が発生しやすいポイントである。

プレイヤーが最初に考える難易度曲線は基本的に右上がり
(ゲームを進めるにつれて難しくなる)だ。
だから序盤で躓いたプレイヤーはそのゲームに対して
物凄く難しい、という印象を持つ。

そうなると序盤でこんなに難しいのなら早いうちに諦めるか、
と考えるプレイヤーが続発しても不思議ではない。
XPは2000と比べて自作戦闘が作り易いかというと
必ずしもそうとは言えない。

内部処理(バトラーのステータスやHP管理など)はXPの方が圧倒的に楽だ。
2000だと条件分岐のコピペ繰り返しなところの大半は数行で済む。
同様により高度なAIの構築という視点から見ると2000は絶望的。
敵の思考が作れないことにより断念せざるを得ないシステムもある。
(絶対不可能というわけではないけど)

また、2000には画像を動的に作成する機能がない。
このせいでアイテム名などピクチャを全て作らなければならない。
おそらく、この違いがもっとも大きい。

しかし、表示や演出関連はXPの方が大変だ。
まずテストプレー以外の方法で戦闘画面を可視化できない。
(2000の場合はマップ画面を見ればある程度のレイアウトは分かる)

さらに2000の処理とXPの処理の進み方の違いがある。
2000にあるウェイトの概念、つまり次の処理まで(或いは今の処理が終わるまで)
待機させるのがXPの場合、面倒なのだ。

戦闘アニメを表示してそれが終わったら、ダメージ表示。
そして敵の消去、その後で戦闘結果表示。
2000だとこの流れに時間を取られることはないがXPの場合
このあたりがもっとも厄介だ。

必要なノウハウの量はどちらも大差ない。
物語の基本形とか言われているけど果たしてこの概念は
実際にストーリーを制作するうえで役に立つのだろうか。

市販ゲームのストーリーを調べてみるとなるほど、
確かにこの形をとっているような気がしなくもない。
幾つかの小さな起承転結が集まって大きなそれを形成している感じだ。

だが、それは作者が起承転結を意識しつつ
ストーリーを作った結果だろうか。少々、疑問に思う。
見た感じだと結果的に起承転結のような形に帰着しただけのようだ。

無理に意識してストーリーを変える必要があるとまでは到底言えそうにない。
ただ、物語のテンポやバランスを考えたときに中だるみを
防ぐ効果はあるかも知れないので頭の隅に留める程度はしておいてもいいかも。
能ある鷹は爪を隠す、ということわざがある。
このことわざの教訓とはなにか。二つの解釈が思いつく。

ひとつは手札をいたずらに相手に見せる行為は愚かである、というもの。
もうひとつは謙虚で控えめな態度は美徳である、というもの。

この二つの解釈は「爪を隠す」という行為が
手段であるか目的であるか、という点について異なる。
どちらの教訓も一理ある。無理に解釈をひとつに絞る必要はない。

情けは人のためならず、ということわざを
情けをかけることは相手のためにならない、と解釈するのは誤りであるとされている。
しかしこのような誤解が広まったのはこの教訓を
多くの人がもっともだ、と感じたからだろう。

コミュニケーションを円滑に進めるうえで辞書上の意味を
知っておくことはもちろん大切だと思うがことわざは一種の創作物である。
解釈の多様性くらいは認められてしかるべきではないだろうか。

錯覚について

2006年1月9日 コラム
錯覚に陥っている人にとっては錯覚が真実だ。
実際には簡単なゲーム(プレイヤーの意思決定の誤りに対して寛容なゲーム)
なのにプレイヤーの大半が難しいと感じたのならそのゲームは
一般的に難しいゲームである、と言える。

極論を言ってしまえば実際はつまらないゲームなのに
プレイヤーが面白いと錯覚すれば"面白い"というのが真実にとってかわる。

このように書くといんちきのように見えるが
中には自らを錯覚に陥らせて楽しむ遊びもあるわけだし(危ない遊びじゃなくて)
錯覚は決して嘘ではない。
発想一つで大金を手にした、という人の話を聞くと
アイデアというものの偉大さを実感させられる。

鉛筆の後ろにケシゴムを付ける、スリッパの踵の部分を削る
この程度の工夫なら、と考える人も少なくないだろう。

実際、思いつくだけなら大抵の人には出来る。
問題なのはむしろその後の行動力の方ではないだろうか。
考えるだけなら労力も要らないしリスクない。
だが、実際に行動に移すとなると話は別だ。

そう考えるとアイデアに大した価値はないのかも知れない。
にも拘らずアイデアが最重要でありもっとも貴重であるかの
ような伝え方がなされるのはやはりその方が夢があるからだろうか。
あるゲームでは、プレイヤーキャラクターの使用率というものを
常時閲覧できるシステムを搭載している。
その中にはまだ仲間になっていない人物のモノも含まれており
これにより後の展開が予想できてしまう。

このようにシステムや仕様などが後の展開を暴露してしまう、
というケースが稀にある。もしそれが作者の意図するところ、
あるいは大きな害はないと判断した場合ならもちろん問題はないのだが。

他にもサウンドテストの曲名がネタバレになる、といったケース
なども考えられる。こういったオマケ要素は盲点になりがちだ。

SFについて

2006年1月1日 コラム
SF的要素を扱う場合、様々な技術の概要や原理説明も大切である。
それは入れなければリアリティを損なうから仕方なく入れる
という消極的な意味ではなくSFの醍醐味のひとつという意味だ。

ある小説では月に向かう宇宙船を登場させる際に
月側と地球側に窓を作り、開いている窓の方の重力のみが有効になる仕掛けで
月側の窓のみを開くことで月の重力を利用して動く、という
原理説明を用いている。

荒唐無稽だが、その嘘っぽさもSFの魅力のひとつではないだろうか。

図書館について

2005年12月30日 コラム
必須イベント中で説明しきれない設定や世界観を語るのに適した施設だ。
これらをイベント中で語らせようとすると会話をそういう方向に
もっていく必要がある。
最後の手段としてナレーションに頼る方法があるがこれは嫌われがちな方法である。

そこで図書館や資料館の登場だ。しかしこの方法も、
果たしてそれらをプレイヤーが読んでくれるかという不安が残る。
事実、読まないでクリアするプレイヤーも少なくないだろう。

読まなかった、というのは存在に気付かなかったというケースと
興味を示さなかった、というケースに分けられる。
後者の場合はどうしようもない。それらの説明をイベント中に
盛り込むことでそのプレイヤーの不快指数を上げることを
避けられたのでむしろ良かったといえる。

前者の場合はイベントでその図書館に用事を作るなどをすれば
ある程度は解決できる。もしストーリーや世界観に興味を
持ってくれているのなら高確率で調べてもらえるだろう。

RPGについて

2005年12月29日 コラム
よくも悪くもRPGはごった煮という感じだ。
様々な要素が(悪く言えば)中途半端に交じり合って構成されている。
あるいはそれがRPGが日本人にウケる理由なのかも知れない。
客観的に見て(説得力のない言い方だが)今のRPGは他ジャンルと
比べれば社会における認知度は高い方だろう。

好意的に見ればRPGはごった煮であるが故に色々な楽しみ方の出来るゲームだ。
しかしごった煮という言葉は同時に各々の要素の浅さ、薄さを露呈している。

RPGは他ジャンル、あるいはゲーム以外のメディアの魅力を広く取り入れて
変遷を重ねた結果、より多くの人の嗜好に対応できる一方
独自色が無いためにどこか物足りなさを感じるという側面を持つゲームになった。

それらを踏まえた上で広くて浅い様々な要素に同時に興味を持って初めて
RPGを楽しむことができるのではないだろうか。
ユーザーに媚びているとは一見すると可笑しな言い草だ。
作者(生産者)が彼らの需要に応えるのは何ら間違っていない。
それどころか当然の責務であるとすら言える。

それでも上記のような発言がしばしば見られるのは何故か。
中には人気があって成功している作品に対する嫉妬を込めて言われる場合もある。
だが、それだけであるとは思えない。

ここで強調しておきたいのがユーザーの需要に応えた結果、
ユーザーに支持される作品になるとは限らない、ということだ。
以下は先日、テレビで見掛けた掃除機の事例だ。

・ユーザーは静かな掃除機を求めている
・改良に改良を重ねて静かな掃除機の開発に成功した
・だが、売れ行きが今ひとつなので原因を調べた
・その結果、この掃除機はゴミを吸っている感じがしないという感想が目立った

番組の主題は別にあるのだが関係ないので割愛する。
ここで重要なのはユーザーは自身が本当に求めているものを
きちんと理解していない場合があるということ。

この事例において仮に事前に綿密なアンケート調査がなされていたとしても
「静かな掃除機もいいのだが静か過ぎてゴミを吸っている感じがないのは困る」
の回答を得ることは困難であったと思われる。
何のために作るのか、そして何のためにそれを公開するのか。

他人の事についてとやかく言う気はないが
多くの場合、自己顕示欲ではないかと考えている。

コミュニティの中で自分の存在を示したい、他者から一目置かれたい。
そんな感じだ。ツクールに限らず個人サイト運営や日記なんかもその類だろう。
私も例外ではない。

個人サイトにおける広告収入やシェアウェアによる収入は
金銭そのものよりも上記の欲求が満たされたことを示す証として
機能していると考えられる。

作りたいように作ればいい、という意見をしばしば耳にする。
主にこういうシステムや展開はユーザーに受けるか否か、
のような議論をしている際にそれを諌める形で聞く意見だ。

なるほど、作りたいように作ればいいというのは圧倒的に正しい意見だ。
ではその「作りたいもの」とは何か。
もし作り手の動機が自己顕示欲ならそれは
「より多くのユーザーに支持されるもの」に近い。

もちろん、多数派に支持されにくい路線を取ることを否定するわけでない。
もしプレイヤーとしての自分が好きな方向性の支持層が
少数派であるのなら大いにその価値はあると思う。
それにはその方向性の魅力を体現するという意味がある。

冒頭で制作の理由を勝手に自己顕示欲に限定して話を進めたが
それはそういう動機が多数派ではないか、という話であって
実際の動機は様々でかつ複数だろう。
ただ自分は何のために作るのか、を明確にすることが作品そのものの
方向性を決める上で案外、役に立つのではないだろうか。
レベルが上がると新しい魔法や特技を覚える。
最も一般的な特技習得システムだが単調なレベル上げの
動機維持には非常に効果的だ。

このシステムのポイントはいつ技を覚えるか分からないという点にある。
もし習得するレベルに規則性(5の倍数とか)を持たせたりすると
動機維持という目的を遂行する上では効果が半減してしまうだろう。

また、強力な特技を習得したところでレベル上げを切り上げて
先に進もうとするプレイヤーが多いことが予想できる。
(以前に武器屋の品物についても似たようなことを書いたが)
プレイヤーの到達レベルが予想できればバランス調整がやり易くなる。
ドット単位移動は出来なくてもこれが出来れば一般的な手法で
ツクール2000制のアクションゲームを作ったとしてもそれなりの
操作性になるのではないだろうか。

見下ろし型アクションゲームの場合、プレイヤーキャラの向きが
そのまま攻撃方向になることが多いが、デフォルトのままでは
移動しなければ向きを変えることが出来ない。
ここがひとつのネックになっているように思われる。

ツクール2000のシステムにその場で方向転換を取り入れるのは
少なくともドット単位よりは手軽だと思うし検討してみてはどうだろうか。
あるいは最初から向きが攻撃範囲の決定に影響しない仕様にするとか。

作業について

2005年12月17日 コラム
「努力すれば誰でも等しく大成する」というのはRPGの基本的な性質である。
このことは多くのRPGがプレイヤーに特異な技量を
要求していないことからも窺えるだろう。

作業を嫌い、作業化を懸念する声は少なくないが作業を否定することは
前述の性質そのものを否定することに繋がる。
言い換えればRPGというジャンルにおいて作業は必須要素に近い存在
ではないだろうか、ということだ。

それでも作業を避けるのならシステムをアドベンチャー寄り、あるいは
シミュレーション寄りにシフトする必要がある。

ではRPGに適したタイプの作業とはどのようなものだろうか。
「努力すれば誰でも等しく大成する」というのは現実世界には
およそ適用できない甘美な夢物語である。
そして夢物語における最適な努力とは途方もない努力ではない。
作業が苦行に変わる前に結果を出す必要がある。

作業量に適した報酬量を考えるのがバランス調整だ。
RPGにおいて作業を理由に非難されるのは作業そのものに問題が
あるのではなく、作業量と報酬のバランスがプレイヤーの許容範囲外で
あることを示すものであると思われる。
あるゲームでは2倍速で移動できるアイテムの使用中は
エンカウント率を8割に下げている。
この補正によりアイテム使用中は距離的に見れば
エンカウント間隔は長くなっている。

なぜわざわざエンカウント率に補正を加えたのか。
そのアイテムの利用を促進する、
現実(素早く移動すると敵に遭遇しにくくなる)に即した設定にしている、
などが理由として考えられる。

そしてもう一つ、エンカウントによるストレスを軽減するという意味がある。
エンカウント間隔は距離的に見れば長くなっているが
時間的に見ると逆に短くなっている。移動速度が2倍だからだ。

一般的なエンカウント率とは距離的なエンカウント間隔を調整するものだ。
同じエンカウント率でも移動速度が変われば体感エンカウント頻度も変わる。
移動速度を上げた場合は必要に応じてエンカウント率を
再考する必要がありそうだ。
こういう人をRPGの主人公に据えるのは容易ではない。

理由は簡単でプレイヤーは戦いを大いに望んでいるからだ。
確かに大半のRPGの主人公はプレイヤーの意思とは無関係に喋り、行動する。
主人公とプレイヤーとの距離は以前と比べて遠くなった。

しかしながら依然としてマップ上に存在する主人公を動かすのは
プレイヤー以外にはあり得ない。戦闘時も同様だ。
主人公パーティの思考を統括するのもプレイヤーである。

では、戦闘のないRPGならどうだろうか。
そもそも主人公の性格を戦闘嫌いに設定する理由は
戦闘は嫌いなのに戦わざるを得ない状況に追い込まれて
葛藤する姿を描くことにある場合が多いので、戦闘がなくなると
戦闘嫌いに設定する理由そのものが消滅してしまう。

一般的な対応策は私の知る限りでは
・積極的に戦闘に参加するタイプのサブキャラを出す
・一度、戦いが始まると悩むのを止めて覚悟を決める

の二通りのようだ。

崖と壁について

2005年12月12日 コラム
崖と壁について
ツクール200XのRTPもXPのRTPも広く出回っている
フリーのチップセットグラフィック(私の知る限りにおいて)
についても言えることだが崖や壁が見えるのは
普通の使い方では1方向のみである。左記の図のように。
 
 
だが、市販のRPGのなかでチップセットを用いているモノの中には
全方向の壁を描画する手法を用いているケースが少なからず存在する。
最近のものではゲームボーイアドバンスのRPGが多く該当するだろう。

前者の視点が斜め上方にあるのに対して後者はほぼ上方に視点があるといえる。
(現実世界において部屋を上方から眺めてもほとんど壁は見えない
だろうから、多少デフォルメされていることは確かだが)

ゆえにリアルさでは後者は前者にやや劣るかも知れないが
高低差を多く含む入り組んだダンジョンを自然に見せるには後者の方がやり易い。
なぜなら前者の場合、側面の高低差がどの程度のものなのかが
パッと見ただけでは分からないからだ。

マップチップを自作しようと考えている人はこういうやり方もある、
くらいに考えておくといいかも。
ツクールにおいては大多数が前者に分類されるはずなので差別化を図る意味もある。

批評について

2005年12月7日 コラム
批評に関する議論を聞いていると内容いかんにかかわらず
するべきでない、自由にしてよいの二元論に陥りがちである。
もし法律的な観点から批評の是非を議論するのならそれでもよいが
多くの場合、問題としているのはそういうことではないだろう。

当たり前のことだが批評と一口に言っても種類は様々だ。
ならば批評の是非も内容次第である。

ひとつのポイントはその批評が受け手視点の批評か、あるいは
作り手視点の批評か、ということだ。

前者の批評はよほど酷い中傷を含まなければ、内容は問題にならない。
なぜなら、この批評は「創作物」ではないからだ。
もし無理に創作物として捉えたとしてもその価値は皆無である。

故に批評家と呼ばれる人々が好んで行う批評の多くは後者である。
これらの批評は自然と創作物として捉えられる。

しかもこの創作物は他の創作物と異なり「誰がそれを書いたか」
が価値を決める重要な焦点のひとつとなるのだ。
同じ内容でも批評する側の知名度や実績によって価値が変わる
不思議な創作物である。

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